どこでもドア:時空の制約と感情

筋書きのないドラマ、甲子園

今日は夏の甲子園・高校野球の決勝戦。
真っ黒く日焼けした球児たちの流す涙、土まみれで滑り込んだベース上で微笑んだときの白い歯。
汗まみれの真夏のドラマは、時として涙を誘い、爽やかな感動をもたらせてくれます。

とてつもなく苦しい練習に耐え抜いた後の勝利の喜び、敗退の悔しさは、たとえ野球をやったことのない人にとっても、胸にじんじんと伝わってくるものがあるはずです。

今日はそんな筋書きのないドラマの最終回。
楽しみたいですね。

さて、ここで話は驚くほどガラリと変わります。


ドラえもんが一匹いたら。。

国民的アニメキャラクターの猫型ロボット『ドラえもん』。

単身赴任生活を始めて10年の私にとって、ドラえもんが一匹?いたらどれだけ便利だろうか!とよく考えます。
いや、ドラえもんなんてそんな贅沢は言いません。「どこでもドア」さえあれば・・・

毎朝徳島の大自然の中で目覚めて、どこでもドアで出勤したらそこはもう東京の職場。
満員電車の苦痛もなく、一人寂しい部屋に戻るというわびしさもなく・・・
仕事を終えて、「ただいま〜」とドアを開けたら、暖かい我が家。

昼間はばりばり仕事をこなし、夜は家族団らんや趣味の世界。

毎週末は少年野球のコーチや、子どもたちと山河を駆け回り、採れたての野菜や魚で舌鼓。
逆に田舎の子どもたちを週末ディズニーランドに連れて行くことだってできる。

こんなことを考えてると、イマジネーションの世界は無限に広がります。

空間の制約がなくなったら、世界旅行もあっという間。
まさにネットサーフィンをしているように、世界中の名所を短時間で堪能できてしまいます。

でも、よく考えてみると、本当にそれでいいんでしょうか。。

たとえば、いつでも会える!
と思えば、ほとんど家に帰らなくなるかもしれません。

私などは、月に一度ぐらいの頻度で帰ってますが、子どもたちに会えない時間に、
「今度はこんなことをして遊んでやろう」とか、
「この前は、あんなに叱ってしまって申し訳なかったな」とか、
「次のお土産はこれにしようかな」
なんて思いながら過ごすのも楽しいし、してしまったことに対して自戒しながら人格の成長になったりします。

独身だと、恋人同士も、「会えない時間が、愛育てるのさ〜♪」(よろしく哀愁 by YouTube)なんて歌があるように、時空の制約によって生じる不自由さ故の「募る想い」というのがありますよね。

富士山のご来光は、汗かきべそかき登るからこそ価値がある

そういう意味では、登山なんかも、時間と空間の制約があるからこそ価値があるのかもしれません。
仮に「富士山の頂上に登ってご来光を見る」と計画したとしましょう。

そこにどこでもドアがあったら便利ですよね。

「富士山の頂上でご来光を見る」という目標に対して、
汗かきべそかき苦労して登ったとしても、
ただどこでもドアを開けるだけでも、
果たされる目的自体は同じです。

でも、両者に決定的に違うものがあります。
それは、感情です。

何日も準備期間に費やして、さらに何時間もかけて辛い思いをして登るのと、
どこでもドアで、自宅の部屋から暖かめの服装をして、ただドアを開けるだけとは、
ご来光を見たときの感動、感激の度合いがまったく違ってくるはずです。

苦しい時間、長い距離があったからこそ、美しい景色を見たときの感動もひとしおのはずです。

さて、冒頭でお話しした甲子園の話。

勝っても負けても彼らが手にするものは一生の宝物として、自分の心の中に刻み込まれることでしょう。
なぜか?

それは、長い時間をかけて苦しい練習に耐えてきたから。
そして、それを支えてくれた家族や関係者の人たちがいてくれたから。

投げる、打つ、走る。
どれだけの練習にその時間を費やしたか。
どれだけの感情を周辺の人たちにぶつけてきたか。

それは自分たちだけが知っていること。

そこには、何の苦労もなく夢を叶えてしまうドラえもんの道具や魔法のランプはあってはなりません。

土まみれ汗まみれの甲子園の影には長時間にわたって練習した苦労が隠されている

甲子園という目標に対して、時間的、空間的制約があったからこそ、肉体が鍛えられ、人格が成長できたわけです。

高校三年間という限られた時間の中で、精いっぱいのことをしてきたという満足感、あるいはもっと練習をしていればと思う後悔の念。さまざまな思いでつづられたストーリーがそこに凝縮されています。

もし与えられた時が永遠に続くとすれば、今の苦しみから逃れて、怠惰な生活をしてしまうかもしれません。
練習をサボり、好きなゲームだけしているかもしれません。
「時間は永遠にあるんだから!」と。。

以前、ツイッターでこんなことをつぶやいたことがあります。

光が当たれば影ができる。幸せを実感するのは不幸せなときがあるから。愛が生じると同時に不安も生じる。いつか愛が終わってしまわないかと。でも愛が永遠に続いたとしたら、その愛を大切にしなくなるかも。この両極が人生の面白みと情緒を生み出してるんだな、これが。

私たちは有限の世界に生きているという事実は否定できません。
愛する家族も、友人も、恋人も、みんなみんないつかは。。

でもこれが永遠にとなるとどうでしょう。
つまり時間の制約がとれてしまったら、、

時間に制約があるからこそ傷つき、
時間に制約があるからこそ愛が深まり、
もどかしいと葛藤するからこそもっと大切にしたいと思う。

のではないでしょうか。

一見、時間や空間の制約はとっても不便で不自由だなと感じるかもしれません。
でも、よく観察してみると、その制約によって様々な感情が造成され、人格が形成されていくんですね。

「人間の成長は、まさに時空の制約によって支えられている」などとつぶやいてみる土曜日の朝でした。


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2 thoughts on “どこでもドア:時空の制約と感情

  1. 土曜の朝から深いお言葉。時空の制約。わたしにとって一番大切な「自由」も、不自由な中に生きてるがゆえの渇望なのかもしれません。奇しくも、今朝は時間について考えていました。この世の中で時間だけが全ての人に平等に与えられている…と信じていましたが、果たしてそうなのか?確信がゆらいでいます。「時間は存在しない」という考え方を知ってしまったから。えっと思うと同時に何かひっかかります。重要なメッセージがそこにこめられているような。これから、答えをさがしていきます。

    1. umejunaさん、コメントありがとうございます。
      ハイデッガーの『存在と時間』は読んだことがないのですが、「時間は存在しない」という考え方には興味がありますね。
      確かに「えっ」って感じで、その真意を知りたいです。
      私の「時間」に関するとらえ方は、「現在」の連続。
      そんな感じです。でもこれだけではあまりにも浅いので、umejunaさんとおなじく、答えを探している最中です。
      今度『存在と時間』読んでみます。

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